僕は子供の時から、自分を争いから避ける位置に置いていました。
わかりやすく言うと、強い意見を持っている人の近くで傍観する、という位置。
常に俯瞰(ふかん)で物事を見るような子供でした。
よく言えば「要領がいい』、悪く言えば『ずる賢い』になるんでしょうか?(^^)
人がやっている事をじっと見て、相手がどういう反応をするのか、怒るのか喜ぶのか、それを俯瞰で見ていましたね。
なので、バリア的なものが常に目の前にあり、それを突き破ってまで攻撃して来る人はいませんでした。
それでも、自分に被害が及びそうになると、『わかったわかった』と一度受け止め、その人を説得する術を知っていました。
『おもねる』や『へつらう』が近い感覚ですね。
できればしたくない行為ですが、争わない為には必要な事です。
そこまでしても争いたくないのは、どうしてだと思いますか?
以前このブログに書きましたが、争い事の先にプラスにが無いからです。
よくドラマや漫画などで、喧嘩の後に仲良くなる、いわゆる『タイマンはったらダチ!』的なモノがありますが、僕はこの目で一度も見た事がありません。
喧嘩は何度も目にしていますが、その後は散々たるものです。
次に会ったら、、、わかってるな!という事です。
まれに、その後社会人になってから『盟友』や『明友』みたいな関係になる事はありますが。
だから、そういうものに憧れてドラマや漫画を見るんです。
ダンスに逃げる
社会人になってからもその性格は変わっていません。
それは人に対してだけではなく、時代の流れにもです。
西城秀樹さんに憧れ、幼い頃から歌手になりたかったのですが、その方法がわからずもがいていました。
どうしたら歌が上手になるのか、どうしたらテレビに出られるのか、毎日のように考えていました。
そんな時父親が『歌には音程とリズム感が必要だ。歌は急には上手くならないから、おまえダンスやって来い!』と言われ、仕方がなくダンス教室に。
そこにいたのは、おっかない顔をした先生でした。
『ダンスが好きなのか!?』と言われ、『大好きです!』と答えたのを覚えています。
そして始めたのは、曲に合わせて歩くこと。
何十分もずっと歩いていました。
何が正解なのかわからなく、ただひたすらに歩く。
次の週も、その次の週も。
前に行ったり後ろに行ったり。
辞めたいとも思いましたが、そもそも争い事が嫌いな流される性格なので、辞めることは出来ませんでした。
すると、だんだんダンスが面白くなり、そのままダンサーとして働くようになりました。
やっぱりそうだ。
自分の思いとは少し違っても、とりあえずやってみよう。
何かあるかもしれない。
そう思ってからは、子供の頃のように何事も俯瞰で見るようにしました。
目の前に大きな壁が現れたら、なんとかして乗り越えるのではなく、乗り越えられそうな時期を見極める。
それでもダメなら、今はいったんお休み。
いつか必ず乗り越えられるときが来る。
そう信じて次のことをやるようにしています。
気がつけば、知らないうちに乗り越えている事もありますよ。
逃げましょう
母親の口癖が『死にゃ〜せん』だった事もあって、極論が背中にあります。
何かあって立ち向かう事も必要なのかもしれませんが、僕には無理です。
僕はそういう性格ではないので、間違いなく逃げます。
逃げる事を恥とは思っていません。
強力な武器だと思っています。
僕はそういう戦い方をしているんです。
ただそれだけなんです。
それはこれからも変わりません。
時代に逆らわず流され続けてどこにたどり着くのか、それも楽しい人生じゃないですか?